バカレキ

バカが還暦を過ぎて生きた証(あかし)がないことに焦燥感を抱いて書き記すバカのレキシ

バカが還暦を過ぎて生きた証(あかし)がないことに焦燥感を抱いて書き記すバカの歴史

K51バカの60代(目的)ブログに書く本当にやりたかったことは何?

K3バカの60代(目的)ブログに書く本当にやりたかったことは何?

ブログという場所は、私が本当にやりたかったことを見つけられる場所になり得ます。
 
自分の考えや思いを自由に表現できるブログは、人見知りの私でも心の中をさらけ出すことができます。
 
ブログに何を書けば、私が本当にやりたかったことに近づけるでしょうか?

一つのことをやり遂げたことがなかった

思い返してみると、私はこれまで一つのことを納得の行くまでやり遂げた経験が無いように思います。思い浮かぶのは2つの原因です。

ゴールを設定しないから息切れしてしまった

何かを最後までやり遂げることが出来なかった原因の一つは、具体的なゴールや目標を設定することがなかったからではないかと思います。
 
ゴールが決められないということは、やろうとしたことが切実でなかったのだと考えられます。止むに止まれない状況でなかったのは、恵まれていた状況であったとも言えますが、起伏のないつまらない人生だったことにもなります。
 
ゴールを設定できなかったのは、本当にやりたいことではなかった証なのかも知れません。

生活で必要のないことを選んでしまった

本当にやりたかったことでなかったのは、生活する上で必要なことではなかったのです。
 
やり遂げようが途中で挫折しようが、生活に大した影響がなかったからです。
 
日々の生活の上で避けて通れないことの中に、本当にやりたいことを見出せなかったという失敗です。

本当にやりたかったことはあるか?

「過去を振り返ってみて、私には本当にやりたかったことがあったのだろうか?」。今の状況を見ると、本当にやりたかったことだったのかどうかは曖昧です。
 
ただ、ぼんやり生きてきた中で、いつも私の身近にあった関心事はいくつかありました。

時間をかけても挫折したことは?

いつも途中で諦めてしまうのですが、何度も何度も繰り返し挑戦したことはあります。
 
本当にやりたかったことかは別にして、人生の中で多くの時間をかけてきたことの中に、もしかしたら本当にやりたかったことの候補があるような気がします。

自分史を書くこと

おそらく私は他人のことよりも自分のことに関心があるのです。自分にしか興味がないのかも知れません。
 
無能なくせに自分の生きた痕跡がないことが耐えられないのです。
 
自分の生きてきた歴史=自分史を書くことは大きな関心事でした。
 
自分の生命が尽きるまで、自分の歴史は続きます。

英語の勉強

これまでの人生で、外国人に英語で話しかけられたり、話しかけたことは数えることしかありません。
 
それなのに英語の勉強を挫折しながら繰り返していたのは、漠然とした憧れがあるのでしょう。
 
日本人にもろくに話し相手がいないのに、外国人と話す機会はゼロに近い可能性です。私はおそらく英語で話すことに憧れているのではなく、英語という外国の雰囲気に憧れているのです。
 
英語に限らず勉強には終わりがありません。

物語を作ること

いつか物語を自分で書いてみたい願望があります。
 
私は無から有を生み出すということにとても惹かれます。
 
年齢は関係がありません。ひとつでも物語を生み出すことができたら、私の人生にも確かな達成感を得られるでしょう。
 
何度挫折しても、物語への憧れは絶えることはありませんでした。

死ぬまで続けられることか?

本当にやりたかったことならば、死ぬまで続けられるはずです。

自分の生き方を書く生活

私の120歳まで生きるこれからの道のりと、生まれてから現在までの過去の記憶を、可能な限り書き続けること。
 
自分の生き方を書き続ける作業は、三日坊主の私でも、絶望的というほどの苦にはならない生活の一つになり得ます。

英語を使う生活

私には英語を聞いたり話すという必要性はありませんが、英語の本を読んだり、英語で文章を書いたりすることは、生活の中に取り込めることです。
 
生活の中で使わない英語ではなく、英活の中で使う英語との関わりはあり得ます。
 
英語で物語を読んだり、英語でブログを書いたりするハードルは高くはありません。

物語を作る生活

はかない夢として、物語を書いてどこかに投稿したりできれば、物語を作ることは生活の中の一つの行為になり得ます。
 
物語の形は、小説だけでなく童話でも、脚本でも、歌詞や詩でも、色々な表現が可能です。
 
懸賞に応募する生活は、毎回落選でも生きがいのある生き方になります。

ブログで続けることを目的に

「やり遂げるということは何だろう?」。目に見える結果や成果でないと駄目なのでしょうか?

やり遂げるではなくて続けること

具体的な成功でなくても、最後まで続けられたとすれば、私の目的を達成したことになるような気がします。
 
やり遂げることは成し遂げることでなくても、最後まで続けられることでも良いと思います。

やりたいことをブログで表現する

誰にも知られないことではなく、誰かに見られることが可能なブログという手段を使えば、やりたいことを続けることができます。ブログは自分が止めることが無い限り、続けることが可能です。

無料ブログという理想の場所

サーバーやドメインを有限的に契約するのは、還暦を過ぎたものには不安が残ります。
 
無料ブログという場所は、私の体が存在しなくなった後にも、少なくとも暫くは私の分身が残る可能性を持てます。
 
私の死後も存在し続けるブログを想像するだけでも幸福感があるのです。(ゴミにならないようなブログでなければという思いはあります)

K50バカの60代(記憶)ブログで生き方を振り返る価値はあるか?

K2バカの60代(記憶)ブログで生き方を振り返る価値はあるか?

自分は何者なのか?自分の生き方は何だったのか?
 
自分の過去を振り返り、ブログに書き記すことで、本当の自分を見つめ直すことができます。
 
自分の人生は生きた価値があったのか、それを知るだけでもブログに書く意義はあります。

自分の生きて来た記憶を確認する

自分の過去を正確に振り返るには、できるだけ細かく、できるだけ漏らさずに記憶を確認する必要があります。

書いて初めて記憶がよみがえる

平凡に見える過去の記憶は、自分でも想像できなほど潜在意識の底に眠っています。
 
頭の中で思い返すだけでは、記憶の一部しかよみがえりません。
 
記憶をたどりながら文字にして書いていくと、その言葉に連想されるように、忘れていた関連した思い出が湧き上がってきます。

自分史で記憶を整理

生まれてから今日までの生きた記録を、時間の流れに沿って書き留めると、自分の歴史=自分史ができます。
 
過去の記憶を呼び起こすにも、年齢、時間の順番にたどっていくと、記憶の間に捨て置かれていた出来事を拾い上げることができます。
 
出来上がった過去が自分史に整理されていれば、効率的に過去と現在を行き来することができます。

本当の自分という人間を知る

自分の過去を振り返る目的は、今生きている自分という人間は何者なのかを知るためです。

過去の出来事の感情を再確認する

過去の出来事を振り返る意義は、表面的な事実よりも、その時の自分や周りの人達の感情や思いを再確認することです。
 
現在の自分自身や自分を取り巻く状況は、過去の一つ一つの出来事によって成り立っています。
 
過去の出来事に受けた感情や思いが、今の自分の性格や運命に影響を与えています。

本当の自分を客観的に見つめる

「本当の自分はどんな人間なのか?」。それがわからないことで、自分への不信、人間関係からの逃避、目的の喪失の原因になっています。
 
本当の自分を一番知らないのは自分だとしたら、知るためのヒントは過去の記憶の中に眠っています。
 
過去の出来事に、自分はどう振る舞ったのか確認することで、本当の自分を客観的に見つめることができます。

ブログは自分が存在したアリバイ

自分が確かに生きたことを誰かに知ってほしい。ブログはそのわがままな願いを叶えてくれるものです。

友達のいない私への訪問者

私に会いに来る友達はいません。ブログに訪問する人があるならば、唯一の私への訪問者です。
 
たとえ偶然迷い込んでしまっただけの訪問者であったとしても、私にとっては貴重な訪問者です。
 
ブログという静的な媒体を介した訪問者との遭遇は、人見知りの私にとって理想的な出会いの機会です。

ブログを誰かに見られるアリバイ

ブログに自分の記憶や思いを綴ることは、自分の分身を存在させることです。
 
そのブログを誰かに見られることは、私が存在したことのアリバイになります。
 
ブログという私の分身のアリバイであったとしても、私はそれで満足なのです。

自分の中から生まれる価値

ブログに書き記すからこそ自分の価値観を表せます。自分の中から自分だけの価値を生み出せるのです。

広大なネット空間に残る私の生きた痕跡

インターネットという宇宙のように無尽蔵な世界の、塵のような一つのブログであっても、確かに私の生きた痕跡に違いありません。
 
「広大なネット空間に、自分のブログはいつまで存在できるのだろうか?」
 
私が選択したブログサービスが存続する限り、私のブログも存在し続けられるのでしょうか?有限の花火のように消滅してしまうとしても、私が生きている間だけでも存在できれば、それで良いのです。

書くことで初めて形になる私の価値観

自分の生きた行動や感情を書くことで、自分でも気が付かなかった自分を発見します。
 
誰でのものでもない自分だけの行動や感情は、自分だけの価値観を表しています。
 
取るに足らない無能な私の言葉だとしても、ブログに書くことで初めて形になる私だけの価値観です。

J3バカの50代(後悔)二度目の葬式の喪主になっても失敗したこと

J3バカの50代(後悔)二度目の葬式の喪主になっても失敗したこと

40代の半ばで初めての喪主では思い通りのことが出来なかったので、それから10年後の母の葬式では、反省を生かしたものにしたいと思っていました。
 
しかし実際の私の喪主ぶりは、父の時より満足のいくものではありませんでした。
 
どうして二度目の葬式も失敗してしまったのか?何度も経験できることではないので後悔しています。

病院で紹介された葬儀屋に頼んでしまった

80歳を過ぎた母は、自宅で倒れて大学病院のICUに運ばれたまま、そのまま翌日の未明に息を引き取りました。
 
徹夜で付き添って頭がぼんやりしていた私に、病院の看護師から、「遺体のお引取りは、どちらかご指名の葬儀会社はありますか?」と訊かれました。
 
この時に私は最初の大きなミスになるのですが、後先のことも考えずに、「特にありません」と答えてしまいました。
 
看護師は、「それでしたら病院でご紹介できる葬儀会社で宜しいいですか?」と言うので私は、「はい、お願いしますと」言ってしまったのです。
 
私の優柔不断さと面倒くさがりな性格のせいなのです。実のところ、もしもの時にはここへ頼もうと決めていた葬儀会社はあったのです。「遺体の自宅への搬送ぐらいはどこへ頼んでも良いだろう」と判断してしまったのです。

遺体の搬送費用が高い?

病院から紹介される業者が割高だという噂を聞いていましたが、実際に請求された2万円が高いのか安いのかはよくわかりませんでした。
 
搬送費用を請求された時、「もし、葬儀一切をお任せ頂ける場合は搬送費はサービスですが、搬送だけの場合は2万円頂きます」という言われ方をしました。
 
この時私は迷いました。
  • この時の業者の人の印象が良かったこと。
  • 葬儀会社はどこも似たりよったりに違いないと思ったこと。
  • この業者に遺体搬送を頼んだのも何かの縁なのではないかと思ったこと。
 
前々から心に決めていた葬儀会社がありながら、遺体搬送を頼んだ業者に任せてしまおうと決めてしまいました。
 
「葬儀も是非うちに任せて下さい」というような営業的な押しが全くなかったことが、私の判断に大きく作用しました。搬送だけで満足して帰ろうとしていた様子が、返って好印象だったのです。
 
「これも縁ですので、葬儀の方もお願いします」と言うと、「えっ!」と意外そうな表情をしたのは、私の方が意外に感じました。
  • この業者は病院からの遺体の搬送を主としているのか?
  • 葬儀一般には不慣れな業者ではないのか?
 
というような不安もよぎりましたが、お願いすることにしました。その時の私は、「縁」というものにこだわった価値観を持っていました。

土地柄の葬式に不慣れ

実際に葬儀が行われると、業者は一生懸命やってくれたのですが、土地柄に慣れていない業者であったため、慣れ親しんだものと少し異なった葬儀になりました。
私の見慣れた土地の葬式と雰囲気の違った葬儀だったのです。
  • 受付の配置、受付の手順、葬儀の進行がこの業者独特のやり方だったこと。
  • 祭壇の生花や盛り籠の選択と配置が少し変わっていたこと。
  • 引き出物を後日送るのではなく、当日その場で持たせたこと。
 
祭壇の横に生花ばかりで盛り籠がなかったので、親戚の人のはからいで急遽用意したり、引き出物は後日送付する習わしだったのを手渡しにすることにしたのは、それまで私が経験した土地の葬儀とは違っていました。
 
これは業者だけの責任ではなくて、私と相談の上決めたことなのですが、「そういうのは土地柄に合わないですよ」というようなアドバイスを受けられなかったのは確かです。私も打ち合わせの時に細かいことまで深く考えなかったのがいけなかったのです。
 
もっとも、いつも見慣れた葬式と少し違っていたとは言え、失敗と言う程ではありませんでした。「あの家は、他の家とはちょっと変わった葬式をした」という人がいたかも知れませんが。

近所の人の協力を上手く使えなかった

私が喪主として失敗したのは、喪主としての葬式を差配する段取りの要領が非常にまずかったことです。一人で空回りして、周りに迷惑をかけてしまいました。

喪主が全て抱え込んでしまった

私の性分で、できるだけ周囲の負担を少なくしようと考えたあまり、何でも自分でやろうとしてしまったことです。
 
葬儀会社の決定からお寺の手配、親族への連絡、近所への協力の依頼、通夜の食事や壇払いの予約など、一人で抱え込んでしまったのです。
 
周りに負担をかけまいとして、手伝いに集まった親戚や近所の人を家に残して、一人で外を駆けずり回っていたのです。何か手伝おうと待たされた人たちは、何もすることもなく手持ち無沙汰のまま、私の帰るのを待ちきれず帰ってしまったのです。
 
人への頼み事を遠慮してしまう、私の悪い癖が出てしまいました。

喪主は役割分担してお願いすることに徹すべき

後から考えれば、喪主は家の中で動かずに、親戚や近所の人に役割分担をお願いするようにすれば良かったと思います。
 
最初に落ち着いて、何をしなければならないかを書き出して、一つ一つを周りの人達に割り振って動いてもらうようにするべきでした。

自分より周りの助言を優先してしまった

父の葬式を経験してから、母の時にはこうしよう、ああしようと考えてはいました。それがいざその時になると、自分の考えより周りの助言を優先してしまいました。自分の意思の弱さが嫌になります。

葬式は時代とともに変わっていく

親戚や近所の年配者の助言はありがたい部分もありますが、あくまでも過去に経験したことに基づいたアドバイスです。
 
葬式の形式も時代とともに変化していきます。私の周りでもその後、昔では考えられなかった家族葬が増えてきました。
 
私が後悔するのは、葬式の形が見慣れたものと少し違ってしまったということよりも、周りに気を使いすぎてしまって喪主として主体的になれなかった点です。

親戚や近所の人より土地柄に慣れた葬儀屋と相談すべき

周りの親切な意見は人それぞれで、各自の慣れた葬式の形が無難だと考えます。
 
しかし、それもいい加減なもので、いざ自分の家の葬式では全く違った形で行ったりしています。
 
本当に無難な葬式を行おうとするならば、土地柄になれた葬儀屋と先ず相談して基本的なことを決めてしまうことです。
 
その基本線に沿って、親戚や近所の人たちに手伝ってもらう部分を協力してもらえば良いのです。
 
私の失敗は、土地に不慣れな葬儀屋と相談しながらも、親戚や近所の人の意見に振り回され、その上自分で全て動こうとしてしまったことです。

葬式を葬儀場でなくお寺でやってしまった

葬儀場の選択で失敗したと思ったのが、檀家になっているお寺にしたことです。
 
「焼香には年寄が多く来るから、近くのお寺にした方がいいよ」という近所の人のアドバイスに影響されました。(アドバイスした当人は、その後直ぐに生じた自分の家族の葬式は葬儀場で行っています)

お寺は葬式に向いていない

母が他界したのは厳冬でしたので、暖房設備の乏しいお寺での葬式は遺族側も弔問客も大変でした。
 
遺族は寒気が流れ込む開け放された客殿に座って焼香の度に頭を下げます。参列者も寒空の下、焼香が始まるまで並んで待っていなければなりませんでした。

ボランティアのお願いがが多くなる

葬式を行ったお寺の場合、駐車場が狭いので、近隣の空き地や公園などに借りなければなりませんでした。駐車する車の交通整理も、町内会の交通部の人達にお願いしました。
 
また、お寺までの道順を知らせる張り紙を近所の人にお願いして貼ってもらいました。

二度目の葬式で喪主をした反省点

葬式は土地柄に慣れた葬儀屋に任せるべき

無難な葬式を行うには、土地柄に慣れた葬儀屋に任せるべきです。こちらが分からなくても、土地柄のオーソドックスな葬式になるようなアドバイスをしてくれます。
 
その土地に慣れない業者の場合、施主側の要望なら何でも聞き入れてくれますので、土地の風習に合わないような形式になる可能性もあります。

臨終の前に葬儀屋を決めておくべき

臨終に近づいたら、事前に決めておいた葬儀屋に遺体を搬送してもらう手配の準備をしておくべきです。病院から紹介された葬儀屋は、施主の住む土地柄を知らない業者の可能性が高く、いちいち細かい打ち合わせが必要になります。

近所の人を遠慮せず上手く使うべき

二度目の葬式で私が最も後悔した点です。近所の人たちもそのつもりで集まってくれているのに、喪主の私が遠慮してしまったために、何を手伝えば良いのか分からず、無駄な時間を取らせてしまいました。
 
葬式などの非常時の場合は、遠慮しないで甘えてしまった方が、近所の人にとっても協力しやすいのです。

K1バカの60代(自立)還暦は年金より本当の生き方かを心配する歳

K1バカの60代(自立)還暦は年金より本当の生き方かを心配する歳

還暦を迎えて年金をもらって喜んでいる場合ではないのです。
 
自分の人生をやり直すことを考えなければならない節目なのです。

還暦に人生を振り返る

私にとって還暦は老人への入り口ではなくて、新しい人生に切り替えるきっかけでした。
 
失敗した人生の前半を改めて、全く違った生き方を始める後半のスタートラインです。
 
新しい生き方をするためには、これまでの人生を振り返る必要がありました。

年金を貰えるまで生きても何もなかった

私の場合、62歳の誕生日を迎えると、1万3千円(2ヶ月分)の厚生年金が振り込まれるようになります。20代後半にわずか5年間勤めた会社員時代の年金です。
 
「年金をもらえるまで生きるとは思っていなかった」。あっという間の人生の時間の流れは、今でも頭の中は14歳のあの頃と全く変わっていないのに、愕然とするものがあります。
 
人生60年も生きれば、何か手応えのあるものが残せるものと思っていましたが、実際に生きてみれば何もありませんでした。

このまま同じように生きたくはない

一度しかない人生を、このまま同じように生きていきたくはありません。
 
たとえ人が何度も生まれ変わるものだとしても、この人生は一度限りです。
 
反省材料ばかりの人生ならば、思いっきり異なる人生を考えやすいとも言えます。

還暦はしがらみを捨てられる年齢

若い頃と違って、還暦まで生きてみると、それまで体にこびりついていたしがらみを捨てられる気持ちが強くなるのです。

「世間の人たち」はどうせ死んでいく

世間の目を過剰に意識して来てしまいましたが、私の周りに取り囲んでいたような世間は、とてももろいものだと気がついたのです。
 
私が若かった頃に、重苦しく大きな存在だった周囲の大人たちは次々に他界していきました。
 
私を束縛していた世間という他者の視線は、「いつかはどうせ死んでいく人たち」の価値観でしかなく、恐れる必要がなかったのです。

「将来」なんて今更失うものもない

若い頃は、将来に何か大事なものが控えているような錯覚があって、大切な将来のために無茶なことができないという自己規制がありました。
 
還暦を迎えて思うことは、大事な将来など特別なかったということです。
 
これからも、将来のために何かを犠牲にすることも、何かを我慢することも必要がないのです。今更失うことは何もないのです。

自分の本当にやりたかったことは?

「これまでの人生で、自分の本当にやりたかったことがあったのだろうか?」。還暦を迎えてこのことばかり考えるようになりました。
 
この先の人生は、本当にやりたかったことをやらないと絶対に後悔するし、取り返しがつかないと思いました。

稼げる男になりたかった

「人並み以上に稼げる男になりたかった」。お金を稼げないことは、男としての自信に大きく関わりました。
 
太古の昔から、男は狩りに出かけて獲物を家に持ち帰る役目が本分です。獲物を獲れない男の値打ちは低いと思う私の価値観はどうすることもできませんでした。

何かを残してみたかった

何かを残してみたいのは本能ではないかと思うのです。
 
「お前に何が残せるのか?」という問いには答えられないのが情けないのです。
 
何かを残したいという何かは、「実感」「手応え」という心の問題かも知れません。形ではなく、やり遂げたという実感のようなものです。

目的を持ちたかった

還暦に至るまで、私は人生に何の目的もありませんでした。ただその日を生きていただけのような人生でした。
 
目的を持った人の人生が輝いて見えるのは、上辺だけを見ている世間知らずなのでしょうか?
 
自分にも目的を持った生き方が出来ないかと、還暦を境に願うのです。

人生の折返し地点と思う

肉体的にも精神的にも、還暦は人生の折り返し地点と思いたいのです。幼稚なままの精神年齢であるだけに、余計そう思えてなりません。未熟なだけ、まだまだ進歩の余白はあるはずです。

120歳まで生きる

私は120歳まで生きると決めました。60歳は丁度半分です。
 
120歳まで生きると決意したことは、私の肉体と精神の細胞に言い聞かせる効果はあるのです。

新しいことに挑む

何もしなかった過去の60年があればこそ、これからの60年は何かをしなければならないという思いが強いのです。
 
行動する事自体が、私にとっての新しい事なのです。

自分で人生を描いて行く

これまでは、何をするにも誰かにそうするように言われたことをしてきたように思います。
 
これからは、自分で考えたことを自分でやってみる生き方をしたいのです。誰かの描いた人生でなく、自分で人生を描いて行きたいのです。

初めて人生の目的を持つ

これまで何一つ目的と言うものを持ったことがありませんでした。
 
もし持つことができたら、初めて目的を持った人生を歩いて行くことができます。

無から有を生む生き方

何かを残したいということは、何もないところに何かを生じされることのようにも思えます。
 
無から有を生む生き方があるならば、今後の人生はそういう生き方でありたいと思います。

自分の足で歩き始める

誰かの敷いたレールの上を歩いて来ただけのつまらない人生。これからは、自分の足で歩いていきたいのです。
 
ほんの小さなことで良いから、自分で決めたこと、自分で考えたことを、こつこつやっていく生き方をしてみたいのです。

J2バカの50代(経験)未熟な男が50歳を過ぎて子供を授かる

10-2バカの50代(経験)未熟な男が50歳を過ぎて子供を授かる

5年間の不妊治療で諦めていた子供

私の40代の後半は、妻とともに不妊治療に追われました。地元には不妊治療に対応した病院がなかったので、車で1時間半程の都市まで治療に通いました。
 
5年間の不妊治療も諦めかけていた時、待望の子供を授かることができました。
 
そこまでの長い道のりには、奇跡的な出来事もありました。

2回の子宮外妊娠

大学病院の産婦人科での不妊治療では、妻は2回の子宮外妊娠で2回の腹腔鏡手術をしました。卵管の途中で妊娠してしまったために、その部分を切除しなければなりませんでした。
 
ストレッチャーに寝かされて不安そうに手術室に向かう妻を見送ること2回。妻にこんな大変なことまでさせて、申し訳なくて、可愛そうで、自分が情けなくなりました。
 
「こんな私が子供を作るなんて、罰当たりなことなのか・・・」。私には子供を持つ資格がないような気がしました。
 
「妊娠しましたよ」という先生の言葉。数週間の喜びもつかの間、「子宮外妊娠です」という診断。その度に妻の体を傷つけてしまう暗い気持ち。
 
私よりも強い思いで臨んだ不妊治療の結果に、妻の失望感を思うと残念でなりませんでした。

ある奇跡的な出会い

妻が大学病院で2回目の子宮外妊娠の手術を受けて退院した日、私と妻は、「もう、この病院での治療は止めよう」と決めました。3年間通った大学病院の大きな建物を振り返って、「もう、子供は諦めた方が良いかもしれない」という思いもありました。
 
「ご飯を食べて帰ろう」。もうこの大学病院に来ることもないので、思い出に残すような気分で、近くの店で昼ごはんを食べて帰ることにしました。
 
小さな中華料理の店で、女主人は中国の人でした。私の妻も中国出身なので、妻の方から声をかけたのをきっかけに、不妊治療を諦めて帰るというような話をしました。
 
すると女主人から、「それなら、この先の○○クリニックに行ってみたら。不妊治療で有名な病院らしいよ」と教えられました。私と妻は、半信半疑でそのクリニックを訪ねました。
 
恐る恐るクリニックの玄関を入ろうとしていると、中から診察を終えたらしい40歳位の女性が出てきました。私は思わず、「あの、この病院て、どうですか?」と聞きました。その女性はきっぱりとした口調で、「ここは全国から診てもらいに来る程の病院らしいですよ」と答えてくれました。
 
「そんな有名な病院がこんなところにあったのか」。私と妻は、諦めかけた気持ちを、もう一度望みを持とうと思い直しました。「このクリニックにかけてみよう」
 
このクリニックに通い始めて2年後に、妊娠することに成功するのですが、きっかけを作ってくれた中華料理店は、私達が訪れた後直ぐになくなっていたのです。まるで神様が最後の願いを叶えてくれたような気がしました。

最後の手段の体外受精

左右両側の卵管を失った妻が妊娠するためには体外受精をするしかありませんでした。クリニックの最初の診察で、問診票を一瞥した院長から、「絶対妊娠できます。任せてくだい」と自信を持って励まされました。
 
1回で数十万と費用のかかる体外受精ですが、経済的な負担とともに、時間的な負担、妻の身体的な負担も大きなものがありました。妻の卵巣から採卵するためには、体の外側から針を挿し込んで行います。それだけでも妻の体には相当な負担になっていたことは、待合室に戻ってきた妻の表情でわかりました。
 
いくつかの卵子を採卵できて受精できたとしても、その中で使える受精卵は限られていました。それでも中々着床することが難しく、体外受精を繰り返す毎に、経済的な積み重ねとともに希望が薄れていくように感じました。
 
半年、1年、2年と、中々妊娠できないまま、院長の自信に満ちた言葉を疑い初めた時、念願の妊娠の診断を受けました。
 
ボロボロに傷ついた妻の体に新しい生命が宿った時、信じられないような嬉しさもありましたが、妻にだけ大きな負担をかけてしまった申し訳なさに、子供を授かることの過酷さを思いました。

50歳を過ぎて初めて父親になる

私は51歳にして初めて子供を授かることができました。普通の人たちにとっては、孫のような長男の誕生です。

子供が成人した時には70歳を超える

子供が20歳になった時には、私は71歳です。しかし、不思議と深刻には思いませんでした。「親がなくても子が育つ」。私は子供が生まれたことだけで、私の大きな役目を果たしたような気持ちでいました。
 
子供を作っただけで満足している無責任さよりも、子供に命を与えることができて、子供は自分の人生を生きていくだろうという思い込みの方が強かったのです。

遺伝子を継がせることの不安と希望

欠点だらけの私のような人間の遺伝子を継がせることに価値があるのかとか、先祖代々の血脈を私の代で途絶えさせなくて安堵した思いなどが交差していました。
 
私と似たようなひねくれた子供になったらという不安と、私とは全く違った良い人生を歩んでくれるかも知れないという希望がありました。

人の2倍の時間がかかった人生

私は何をするにも、人の2倍の時間を必要としてきたように思います。人生そのものに目的を持てなかったために、さまよい続けて、余計な時間を使ってしまいました。

自分に自信が持てなかった

私が自分に自信が持てなかったのは、人生に目的を持てなかったからなのではないかと思うになりました。
 
何でも良いから目的さえあれば、そこに向かっていくことの積み重ねが自信になっていくように思えるのです。

自信は安定した経済力?

目的が無いとしても、お金を稼ぐことのできる能力、経済力があれば、それだけでも自信を持つことができたのではないか?
 
50歳を過ぎても安定した経済力を持てない自分に、「いつになれば自信を持てるのだろう?」と問いかけても虚しいことです。

未熟さは経験でしか埋められない

人生の目的と経済力以外にも、私に欠けている部分がありました。それは圧倒的な経験のないことです。
 
人生のあらゆる面で、普通の人が経験することをしていないことも、自信のなさにつながっているように思えます。

経験を避けて来た後悔

友達を作らないこと。自分の本心をさらけ出さいこと。相手も自分も傷つかないような生き方を選んできた結果、たくさんの経験の場を避けてきてしまいました。
 
若い時にしか経験できないこと。歳をとって経験しても価値の低いこと。人生の中の経験には、後で取り戻せないことがあるのです。

経験だけが人生を築いていく

経験の不足した私には、自分の自信のなさ、未熟さの原因が、全て経験を避けてきた生き方にあったと思えます。
 
人を傷つけるとか、自分が傷つくとか、失敗を恐れるとか、そういうことが歳を重ねるにしたがって小さなことに思えてきます。
 
きっと、経験の多さが豊かな人生を築いていくのでしょう。もう、取り返せない経験も多くなりましたが、できることなら経験から逃げない自分になりたいと思いました。

J1バカの50代(勇気)人見知りが町内会の三役を引き受けた理由

10-1バカの50代(勇気)人見知りが町内会の三役を引き受けた理由

人見知りで人付き合いの苦手な私は、50歳の時に町内会の三役を頼まれました。
 
それまでの私なら絶対に断っていましたが、数日思い悩んだ末、引き受けることにしました。
 
私が最も苦手とする人付き合いの代表格のような町内会の、それも重責の三役をなぜ引き受けたのか、その理由を思い返してみます。

消防団への入団を断った後ろめたさ

地元の青年なら多くのものが入団して、地元に貢献する消防団があります。消防団に入団しなかった後ろめたさが、町内会の三役の誘いを受けた時に大きく影響しました。

28歳の時に入団の誘いから逃げる

私は28歳の時に、地元の消防団に入団してくれないかという誘いを断ったことがあります。
 
私はこの頃、小さな会社の社員でしたが、左胸の周辺に慢性的な痛みを感じていて、心電図などの検査を受けている時でした。
 
消防団の練習や、深夜などの緊急の招集とかに支障をきたすのではないかという不安がありました。
 
しかし本当は、健全な状態であっても断っていました。都合の良い理由をつけて逃げたのです。この時の後ろめたさは長く残りました。

大人の付き合いができない恐怖

消防団は消防活動以外にも、お祭りの警備や町内会の行事に駆り出され、何かと集まった際には酒を酌み交わしているイメージがありました。
 
28歳の人見知りの私には、そういう大人の付き合いの中で、上手に振る舞える自信がありませんでした。私には消防団が、煩わしく恐ろしいものに見えたのです。
 
田舎町の消防団は、青年から大人になるための通過儀礼の要素がありました。私は自ら大人になる道を避けてしまったのです。

市議会議員の後援会パーティへ誘われる

田舎町の大人社会では、市議会議員と後援会、町内会と住民が密接につながっています。年老いた両親に代わって、50代の私が市議会議員の新年会などの集まりに駆り出される機会が増えていきました。

近所の付き合いの義理に負ける

まだ隣組という区分けが残っているので、都会のような割り切った近所付き合いは難しいものがあります。
 
個人的にはまったく支持などしていない市議会議員であっても、その地域の有力者で支持者が多ければ、自分も支持者であるような振りをするのが角が立たない付き合い方です。
 
後援会のパーティへの誘いがあれば、敢えて断るのは勇気のいる判断になります。私も初めの頃は理由を見つけて断っていましたが、そうしてばかりもいられない年齢になってきました。頑固に信条を通すより、義理に負ける方が煩わしくないのです。

大人の付き合いへの顔見世

「自分とは全く関係ない、興味も関心もない」と思いながら、市議会議員のパーティに参加していると、こちらの思いとは裏腹に顔を覚えられることにもなります。
 
少しずつ大人の世界に入り込んでいくと、「こいつは頼み事を断らない奴」という印象を持たれます。
 
そういう集まりに参加することは、大人の付き合いへの顔見世になって、私が最も苦手とする町内会への役員への誘いを招くことになりました。

突然の町内会三役を頼まれる

私の地元では、町内会の役員は2年交代の理事と、任期最低6年の三役(正副町会長・事務局・会計)の役員構成になっていました。
 
通常は理事経験者の中から、引退予定の三役が目星を付けて勧誘するのですが、理事も未経験の私にいきなり三役の誘いがあったのです。

最後に仕方なく回ってきた依頼

私の地区の引退予定の三役の役員が、「この人なら」と頼み込んだ候補数人に断られ、最後に残った期待薄の私に勧誘の順番が回って来たようでした。
 
私は顔見知りのその役員から頼まれた時は、「嫌なことが舞い込んで来た」と思いました。私が断れば、その役員が困ることが想像できます。
 
私の頭の中には、「町内会の三役など務まるはずがない」、「断れば顔見知りの役員を困らせる」、「過去に消防団から逃げた後ろめたさがある」という思いが駆け巡りました。

また逃げたら後悔するとの思い

その中で最も強かったのは、「また逃げたら、きっと後悔するに違いない」という思いでした。
 
消防団への誘いを断った後ろめたさは、敵前逃亡した兵士のように卑怯な行為に思っていました。若い時より歳をとった分だけ、大人の付き合いから逃げるカッコ悪さが大きく感じられました。

斎藤一人「困ったことは起こらない」を信じて

町内会の三役の勧誘を受ける前に、私は斎藤一人という事業家の書いた、『変な人の書いた成功法則』*1という本を古本屋で見つけて読んでいました。

町内会の三役は困ったことなのか?

その本の中で私が強く印象に残っていた言葉は、「困ったことは起こらない」というものです。神様は、その人に解決できないような試練は与えないという考え方です。
 
町内会の三役を務めることは、「私にとって困ったことではないのだろうか?」と問いかけました。
 
人見知りの私にとって、想像もつかない町内会に臨むこと自体が恐ろしいことでした。それも三役という忙しそうな役員を引き受けることは、これまでの人生で最も大きな「困ったこと」にも思えました。
 
それでも、納税日本一を何年も連続で成し遂げていた斎藤一人の「困ったことは起こらない」という言葉は、信じることのできる啓示のようにも感じられたのです。

過去の逃げたことは困っていなかった

過去に消防団への誘いを逃げたことは、当時の私にとっても、「本当は困ったことではなかったのではないか?」。そういう思いもありました。
 
小さな山へ登ることから逃げると、その後にはもっと大きな山がたち現れるような恐れを予感しました。

勇気と引き換えに得たもの

結果的に6年間、町内会の三役を勤め終えることになるのですが、私の人生の大きな経験になりました。私の数少ない「何かをした」経験でした。

誠実はどこでも通じる

いい歳をしながら世間知らずの私でしたが、「無能な自分にはこれしかない」という、誠実で徹する信念は町内会でも通じたのです。恥ずかしいミスはいくつもありましたが、誠実の一線を守ることで努め果たすことができました。

逃げずにやり遂げた満足感

「困ったことは起こらない」ことを証明できたことは、小さな自信を得ることになりました。普通の人が平気で行っていることが、「こんな自分にもできた」という満足感です。逃げずにやり遂げたのは、人生で初めての経験でした。

苦手なことは最後まで慣れない

それでも、苦手なことは最後まで慣れることはありませんでした。毎月の町内会の定例会の前後三日間は、緊張して良く眠れませんでした。
 
町内会の三役を6年間経験しても、人見知りで人付き合いが苦痛に感じることは変わりませんでした。
 
ただ、「困ったことは起こらない」という言葉を信じられる思いは強くなりました。そして信じるということは、勇気を必要とすることでした。
 

I3バカの40代(決断)レーザーメスによる痔の日帰り手術を体験

9-3バカの40代(決断)レーザーメスによる痔の日帰り手術を体験

痔を手術するまでの経緯

私は44歳の時に痔の手術をしました。「いつかは手術しなければ・・・」と思いつつ、何だか怖くて先延ばしにしていました。だましだましで来ていましたが、とうとう我慢の限界に達したために痔の手術を決断しました。私が痔を手術するまでの経緯と体験したことを振り返ります。

大学2年生の時に痔を自覚する

私が初めて痔を自覚したのは大学2年生の夏です。ボディビルサークルの練習を終えて、体育館のシャワー室で汗を洗い流している時でした。
 
冷水で身体が冷えたのか、肛門が腫れているように感じました。シャワーを終え、帰りながら歩いている間も、肛門に違和感がありましたが、その日の内に治まってしまったので、深く考えることもありませんでした。
 
20代の前半は、同じようなことが何度かありましたが、不快な症状は長くは続かなかったので、特に治療ということは何もしませんでした。

20代後半から脱肛と出血に悩まされる

20代後半に入ると、痔の症状は慢性化してきました。本屋で長く立ち読みをしていたりすると、いつの間にか肛門から痔が飛び出して来るのです。初めの頃は、本屋から出て歩いている内に治まっていたのですが、だんだんと肛門の中に戻りにくくなっていきました。歩きながら指で押し込むようにしていました。
 
自分の症状は、肛門から痔が外に飛び出してしまう「脱肛」という症状だと自分なりに判断していました。母親も同じ症状を持っていたので、遺伝的要素もあるのかもしれません。排便をする時にも痔が外に出てしまうので、排便の後にトイレットペーパーで押し込むようになりました。
 
そういうことを繰り返している内に、排便の時に出血するようになりました。初めは拭いたトイレットペーパーに付く程度でしたが、だんだん便器に飛び散る程の出血になっていきました。ひどい時には、水鉄砲のように勢いよく噴出しました。

30代は痔との戦い

30代に入ると、市販薬の座薬や軟膏を試しましたがあまり効果はありませんでした。
 
藁をもつかむ思いでテレビや雑誌で宣伝していた「〇〇○○堂」の練り薬も試しました。丸い缶に入った、ロウソクを溶かしたような山吹色の練り薬を、注射器のような器具に吸い取って肛門の中に注入します。半年ほど続けましたが効果はありませんでした。

40代に入って我慢の限界に

慢性化した痔は、一度飛び出すと中々肛門の中に治まらなくなりました。湯船に入って指で優しく押し込んでも、大きく腫れた脱肛は直ぐに出てきてしまうのです。
 
痔が飛び出したままでは歩くのは不快で、長く立っていることも辛いため、体を横にして安静にしているしかありません。数日絶食して、どくだみ茶だけを飲んで腫れが引いたことがありました。
 
こんなことでは日常生活にも支障をきたすようになり、我慢の限界に達しました。恐ろしいようで避けてきた手術を決断せざるを得なくなったのです。

痔の手術が日帰りでできる!

インターネットで近隣で痔の手術のできる病院を探してみました。その中に、市内で日帰りで痔の手術を専門に扱うクリニックがありました。設備も最新の機械を揃えているような説明があったのでそこに決めました。

痔の手術の方法はレーザーメス

このクリニックで行う痔の手術は、レーザーメスを使って患部を切除する方法をとっていました。一般的なメスを使うよりも、切り口が滑らかで手術中の痛みも少なく治りも早いような説明を受けました。

痔の手術のための検査

クリニックに初めて診療に訪れた時は、待合室で待つ間も患者同士でなんとなく恥ずかしい感じがしました。
 
診察では問診の後、診察台に横になって患部を見られました。医師の指が肛門の中に入り、軽くいじられる感触に緊張しました。その後、診断結果と手術する場合の注意などを説明されました。
 
ここで手術をしない選択もできましたが、明瞭に手術の説明をしてくれた医師が信頼できましたので、手術を受ける意思を伝えました。

痔の手術の行き帰りはバスで

手術当日はバスで行きました。手術の後、運転して帰るのは患部が痛いのではないかと思ったからです。
 
結果的には、運転して帰ることも可能でした。それでも帰りのバスに乗りながら、「痔の手術をしたのに入院しないで帰れるのはありがたい」と思いました。

痔の手術の間の痛み

手術台にうつ伏せになり、肛門の周りに麻酔注射をされました。
 
麻酔が効くまで暫くうつ伏せの状態が続きます。この間の私の頭の中は恐怖で一杯でした。
 
切除手術が始まると、患部を切る感触はありますが、痛みというほどの刺激はありませんでした。物理的なメスの感触でなく、光線で切られる感触なのでしょうか。

手術後に見せられた患部

想像していたよりも痛みの無い手術は30分ぐらいで終わりました。切除された患部を医師に見せられ、簡単な説明を受けました。容器の中に横たわった私の痔は、どす黒い紫色を帯びていました。4つの痔核(イボ)が、腐った花びらのように開いていました。

痔の手術後の安静期間

日帰りの手術はバスで帰って来れましたが、麻酔が切れた後は、歩くのが辛い程度の痛みがあり、一週間ほど自宅で横になっていました。

痔の手術後の痛みはいつまで

痛みは一週間を過ぎる頃には少なくなりました。ほとんど痛みを感じなくなるまでは二週間ぐらいかかりました。

痔の手術後の排便とウォシュレット

手術後の最初の排便はとても緊張しました。じっくり時間をかけながら、少しづつ少しづつ便を小刻みに肛門から絞り出す感覚です。
 
その当時、家のトイレはウォシュレットの便座でしたので助かりました。最も弱い水の勢いにして、恐る恐る洗い流します。

痔の手術後暫くは円座クッションで運転

手術から二週間ぐらいしてから運転を始めました。ドーナッツ状の円座クッションを購入して運転席に起きました。一ヶ月もすると円座クッションも不要になるくらい痛みを感じることはなくなりました。

痔の手術で世界が変わった!

痔の手術を受けて世界が変わりました。決して大げさな表現ではありません。
 
それまでは、外出している間、四六時中、痔のことが頭から離れません。少し立っていると肛門から痔が垂れ下がります。指で押して引っ込まなければ、垂れ下がった痔が擦れるような不快感と痛みを感じながら歩かなければならないのです。
 
排便の時の痛みと出血。白い便器に飛び散った鮮血。排便の度に外に出た痔を肛門に恐る恐る戻す苦痛。
 
痔の手術の後は、一切の煩わしさから開放されたのです。

もっと早く痔の手術を決断すれば良かった

家族からも早く痔を手術した方がいいと、さんざん言われ続けていました。
 
中々決断できなかったのは、ただただ手術が怖かったからです。本当に私は臆病者だと思います。
 
こんなに簡単に手術できて、短期間に回復するのなら、もっと早く受けておけば良かったと思いました。早ければ早いほど、症状が軽いほど負担が少ないのです。